2012年4月22日著

 

今週末,以下の事件が主要メディアを通じて報道された。

        



事件の概要はこうである。(「時事通信社」の記事を引用。)



2009年頃~ 女性を待ち伏せして繰り返しつきまとうなどしていた。

       被害女性は、警告の申し出をした。

       駅員は、つきまといなどのストーカー行為で警視庁から警告を受けた。


2011年2月  女性が記名式のIC乗車券「PASMO(パスモ)」を利用していると知った。

       女性の氏名と生年月日を駅端末に入力。

       女性が自宅や勤務先の最寄り駅から乗車した鉄道・バスの利用履歴

       を約10回にわたって不正に取得した。

       ネットの掲示板に女性を中傷する内容などとともに投稿した。

       女性が投稿を発見し、警視庁と同社に被害を申告した。


2011年3月  30代女性の乗車履歴を不正に引き出してインターネット上に公開し、

       懲戒解雇されていた。

       東京メトロによると、

       解雇されたのは飯田橋駅に勤務していた当時32歳の男性駅員。



この事件において、弊職が注視したい点は、被害女性の乗車履歴の公開前の段階における


「氏名」と「生年月日」の入力行為である。

 



この記事からは具体的事情は明らかではなく、推測にとどまるが


当該加害元駅員が、「氏名」はともかく、「生年月日」をどのように入手したかである。


「つきまとい等」にでていたことから、被害女性の住所を突き止めていたであろうから、


その時点で「氏名」の入手は可能であったといえよう。


問題は、「生年月日」である。


被害女性の郵便ポストに投函された郵送物の「窃取」等による情報収集行為以外によって


入手していたとすれば、その手段は具体的にいかなるものであったのか。

 


次に注視すべき点は、


「警告」後の行動にみられる一部のストーカー加害者に特有の「攻撃性」を伴う未練である。

 


全ての人についてあてはまるとまでいうつもりはないが、


例えば、道すがら、衝動が走る異性が視覚にはいれば、


少なからず、見とれてしまうことは「本能」として、当然といえるのではないであろうか。

       


問題は、その後の自己コントロールである。


つまり、「その異性の存在」に対して己自身がどう認識・評価すべきかである。

 


「その存在」に対して、


自己と対等な「個」である存在として認識するのか、それとも…。

         


もし、前者の見識が極めて希薄である場合には、余計なお世話ではあろうが、


専門のセラピストの下に足を運ばれるべきであろう。

 


弊職が中学・高校生であった当時のことではあるが、男子校であったこともあり、


通学途中で毎朝見かける気になった異性(当然、面識など全くない)に対してアクション


を起こす場合、いつもの通学ルートでレターを手渡したり、声を掛けたりと、まさに字義


の如く「公衆の場」で行動にでたものである。(玉砕後、仲間同士で反省会…の連続。)


まず、後をつけ相手の居所等を調べたり、自宅ポストに直接投函したりといった発想自体


を耳にしたことがない。

 


そう振り返ってみると、かかる行為にでる者にとって、


相手方の存在は自己と同等の「個」としての存在以外の存在と認識している蓋然性がある。


通常、「慮る」という意識を備えている者であれば、逆の立場に立った状況を想像し、


つまり、自身が「される側に立った場合」を想像した場合、


好意の感情すら抱いていない単なる知人から、やむに已まれぬ一般人であれば許容しうる


特別の理由が皆無な状況で、自宅付近で待ち伏せ等をされれば、個人差はあるものの、


その相手に対して不快感を抱くであろうとの認識から、


自身で当該行為を節度ある態度を逸脱した行動と位置づけられ、


いわゆる相手方のプライベートな領域への立ち入りと評価されうる行動は差し控えるであろう。


この時点で、この感覚の持ち主は、相手方を自己と同等の「個」としての存在と認めていると


いうことである。

          


これに対して、面識が全く無い相手方、又は、知人の中でも個人的人間関係が希薄である相



手方に対して、その自宅等の居所をつきとめたいという衝動にかられることがあるにしても、


そのことに執着し実現するために手段を選ばずという感覚の持ち主は、明らかに相手方の存


在を「個」である自己の存在とは異なる存在として認識していると言わざるを得ないであろう。



 


現代における少子化、親子関係の多様化、初等中等教育機関における道徳教育の形骸化


(特に都心部で)、遊び方の偏重(対面の機会が取り除かれた)の下で、他者を「慮る」という


意識を培う機会が減少している状況下、「つきまとい等」の程度に応じて、極めて悪質性が高


いケースにおいては「警告」後の加害者に対する一定の措置(心理的カウンセリング等)を法


定すべきとの意見はある。


 


しかし、現時点において、この立法化の実現可能性は極めて低いと思われ、


そして、毎週のようにメディアを通じて報道される現状を踏まえれば、


SNS利用者は、公表すべき情報として、「居住地」「住所地」「生年月日」等の公開にどれほど


の意味があるのか、改めて考え直す必要があるのではないであろうか。    



もともと、学生のコミュニティープラットホームから始まったSNSに関しては、今なおもその


側面が高いゴーイングコンサーンバリューを有し続けているあれば、「氏名」と若干の個人情


報、例えば、卒業した初等中等教育機関等の名称の公開のみで十分事足りるのではないで


あろうか。

 


特に、今回の事件のケースのように、警告を受けた者の中には、行為はやめるものの、


その「警告」を受けたことにより、「好意の感情」から一変し「これが充たされなかったことに


よる怨恨の感情を充足する目的」で「名誉を害する事項を~知りうる状態に置く」といった行


為にでるおそれが十分にありうる以上、特に、女性の方々におかれては、繰り返しにはなりま


すが、個々の自己に関する具体的情報の公開の是非(なぜ、自分はこの情報の公開を欲す


るのか)を熟考され、加害者の我欲を充たす被害者の日常生活に関する情報の容易な入手


につながる御自身の特定を可能とさせてしまう個人情報の公開には、今まで以上に過度に


慎重になられていただきたいものである。


                                               Kenichi yoneda

                

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